棚橋弘至とジャイアント馬場
「ああっ!嘘やろう!?」
「最悪やっ!!!」
今年の新日本プロレス「ニュージャパン.カップ」決勝戦、棚橋選手がザックセイバーjr に敗れた瞬間、我が家に私と息子の悲鳴にも近い叫び声が響き渡りました。
棚橋優勝!ビックカムバック!大復活! と、二人して予想していたのに.........まさか、まさかのフィナーレが!!
息子は、余程のショックだったのか、キッチンとトイレの間をいったり来たりしています。
「くそっくそっ!」
「もう新日本のファングラブ辞めちゃる!」
めっちゃ怒ってます。
ひとしきり暴れた息子は、私の所にきて、悲しそうな顔をして
「もう、棚橋はムリやろうか?.....」
と、聞いてきました。
私は、何て言ってあげたら良いか分からず
「まあ、棚橋のコンディションの問題もあるし、会社の方針もあるだろうからねぇ...........」 と、言ってあげるのが精一杯でした。
私が住んでいる高知県には、長い間、地上波のプロレス中継がありませんでした。 しかし、2年ほど前にスポンサーが現れ、「ワールドプロレスリング」が突如復活しました。
私は勿論、大歓迎でひさしぶりにプロレスファンにカムバックしましたが、私よりもハマったのが、我が家の長男(当初23 歳)でした。 その頃は、オカダカズチカが大ブレイク中で、AJ.スタイルズや中邑真輔も、まだ居ましたし、内藤哲也もロスインゴJAPANを立ち上げる前後で、人気爆発直前でした。
そして、棚橋と言えば、長年の力一杯のファイトのツケで体のあちこちが故障がちでメンタル面も含め、全盛期と言うにはほど遠い状態。
遂には「東京ドーム連続メイン」の記録も途切れてしまいました。
私は、息子は、誰のファンになるのだろう?と、興味深く見守っていましたが、息子が選んだのは
棚橋選手でした。
おおっ!!流石、血は争えん!!!
と、びっくりしました。
何故なら、私がジャイアント馬場のファンになったのも、当時の棚橋選手と同じ38歳頃で、おかれた立場も良く似ていたからです。
(続きます)