どうして来ちゃたの?謎の来日外人レスラー
昭和の全日本プロレス、
「何で日本に呼んだんだ!?」
と馬場社長に聞きたくなるような
無名レスラーや、ピークを過ぎたレスラーが毎シリーズやって来ていました。
(次期シリーズ参加選手予告で、最後の方に白黒写真でチラッと紹介される人たち)
テレビにも殆ど映らず、いつの間にか帰国していきます。
交通費やホテル代、ファイトマネーもバカにはならないと思いますが、とても (観客動員に)貢献しているとは思えません。
現在のプロレス団体では外人レスラーは、ほぼメンバーが固定されていて
このようなムダなコストが掛かる様なことはやりません。
しかし、一見ムダに見えるこの手の外人レスラーの来日こそが、昭和のノンビリムードのプロレス団体の醍醐味でもありました。
通(ツウ)ぶる訳ではありませんが、私は子供の頃みんなが応援する
強いエース外人のハンセンやブロディ
人気者のマスカラスやテリーファンクたちよりも
こんな峠を越した二流外人レスラーに、何故か心がトキメイたのです。
(考えてみれば、一番好きだったジャイアント馬場選手も峠を越したレスラーでした。私はプロレスファン盤「枯れセン」だったのでしょうか?)
そして(私が12歳の)1981 年の全日本プロレス暮れの祭典
「世界最強タッグ決定リーグ戦」に、そのレスラーはやって来ました。
彼の名前は 「ラリー.ヘニング」
この冴えない中年外人レスラーが、今でも忘れられない私にとっての ベスト.脇役レスラーとなったのです。
(次回に続きます)